道路で信号機を古いものから新しいものへと取り替える作業を目撃した。
沿道には折り畳んで束ねられた幾つものでかい段ボールが、割合綺麗に置かれていた。そうか信号機って、でかい段ボール箱に入れられて運ばれているのかと、何か新しい事を発見したような驚き。
ある日、家にとんでもなくでかい段ボールの荷物が送られてきて、開けてみると、なんとそれは、生まれてから何万回と目にしている信号機の新品だった・・・。なんてことが何かの手違いでおこったとしたら、かなりおどろくやろなあ。と暑さに朦朧とした僕の頭は不可思議な妄想に絡め取られていく。でかい箱の中に信号機。不思議だ。どでかい箱のなかにメルセデスベンツ。なんてのも、過剰包装の日本ではあり得ない話では無いような気もする。なんでも梱包してしまうクリストというブルガリア生まれの芸術家がいるが、彼は美術館自体を強化ポリエチレンで覆い、ナイロンロープでそれを梱包した。巨大な建造物を梱包するという発想。なんともロックな発想ではないか。それを許す美術館側の責任者もすごい。1968年のプロジェクトだ。彼の発想はどんどん巨大化して、パリの橋ポン・ヌフまでも梱包。さらにフロリダ州にある島の周囲をピンクのポリプロプレンの布で覆うといった離れ業までやってのけた。まさに究極の梱包フェチ野郎だ。
箱に物を詰めるという行為、物を梱包するという行為にひたすら憑かれたこの男にとって、信号機の入った箱などたいした大きさではないだろう。
しかし、クリストはどうしてそこまで梱包にこだわるのだろうか?
人はみな生まれる前に羊水に包まれていた。そういった、包まれているという原点回帰の本能が人一倍強いのだろうか?
クリストほどではないにしろ、僕も、梱包された物、箱に閉じ込められた物、またそういった美術作品が何故か好きだ。湾岸工場地帯にうずたかく積み上げられたコンテナを見ると、その壮観さとともに、いったい何があそこには入っているのかとわくわくする。どんな人も少なからず、包まれたものが好きなのではないかと僕は思う。箱に入れられたプレゼントなどそのさいたるものだろう。何が入っているか分からないというどきどき感は、包まれ閉じられているからこそ沸き起こる感情だ。
僕の好きなジョセフ・コーネルの箱にしても、その箱に閉じ込められたオブジェ達の魅力には、抗い難い不思議な魅力がある。これも羊水に包まれていた頃の僅かな記憶が呼び覚まされているからなのだろうか?
そういえば、僕自身も脳という思考する器官を肉体という箱に内包した存在だ。突き詰めて独断的に言ってしまえば、地球も宇宙という巨大な羊水に包まれているといっても過言ではないような気もする。人は自分が生まれるもっと以前の何かを、梱包されたもの、閉じられたもの、見えないものに感じとっているのかも知れない。クリストが提示する壮大な芸術作品は無意識下にその事実を人々に伝えているような気がする。
すべてのものは包まれている。
道端に転がる信号機段ボールの破片が、そのことを僕の脳裏にするどい暑さとともに焼きつけた。
Christo and Jeanne-Claude: On the Way to the Gates, Central Park, New York City
今日は大竹伸朗著『カスバの男』を読了。
求龍堂から出版され、絶版となった『カスバの男 大竹伸朗 モロッコ日記』の文庫版。モロッコの熱に浮かされた、現実と夢がないまぜになった文章がすごくいい。僕の敬愛する作家ポール・ボウルズの住処であったモロッコ、タンジール。死ぬまでに一度は行ってみたいなあ。大竹伸朗さんは日本で一番ロックな芸術家だと思う。一度大阪のキリンプラザで大竹伸朗展をやっていたとき偶然見かけたことがありますが、眼光するどくびびったことを覚えています。
カスバの男―モロッコ旅日記